2014年1月30日、川口大三郎君の墓参りをおこなうことができました。川口大三郎君は元早稲田大学第一文学部(一文)学生で、1972年11月8日に当時一文自治会執行部を支配していた革マル派に対立党派メンバーの疑いをかけられ殺された人です。これを機に激しい自治会再建・反革マル派運動が起きました。その概略について興味のある人は、私と意見の違うところもありますが、「『川口大三郎君虐殺』事件考」(れんだいこ作成)というページをみてください。現在までのところ、事件についての一番詳しいページです。
この文章は、私が実名・公開で事件・運動について語った最初のものです。運動が収束した後、私を含めて関係者のほぼ全員が運動について沈黙してきました。語らない理由は人それぞれでしょうが、あえて整理すると、負けた運動であること、内部対立などあまり振り返りたくない内容がいくつもあること、左翼性の強い運動のため1980年代以降の日本では公然と語ることがはばかられたこと、公開の場で語ると革マル派のいやがらせを受けかねないという危惧があったこと、などになるでしょう。しかし、私も60歳を越え、やはり歴史は語らなければならないと思い返し、少しずつ事実と思いを述べていくことにしたものです。
先の文章で、私は「川口君事件の総括をする前に、まず事実関係の資料集めをしなければならない と思います。事件の資料集を作りたいが、そのためにはまず川口君の墓参りを してから、という気持ちがありました。しかし、お墓の場所がわかりません。
幸い、当日川口君と同じクラスの参加者がいて、お墓の正確な場所を教えて貰えることになりました。虐殺反対という運動の初心を失わないためにも、墓参りから始めなければならないと思っています。」と書きました。2Jクラスメンバーより、約束通りお墓の所在地がまもなく届きました。2Jとは川口君が所属していたクラスで、中国語です。1971年入学の早大一文学生は、今日では想像しにくいのですが、全20クラス中中国語は2クラスしかありませんでした。私はもう一つのTクラスでした。
お墓の所在地はわかったものの年末年始の繁忙期もあり、すぐには墓参を実行できませんでした。当初は一人で行く予定でしたが、私の考えを知った樋田毅君(1J、再建自治会委員長)、菊地原博君(1T)も参加を希望し、三人で墓参をすることにしました。三人で日程を調整して1月30日になったのです。お墓は、静岡県伊豆市地蔵堂218法蓮寺にあります。
当日は正午にJR新幹線三島駅改札口で集合。菊地原君および東京出張中の樋田君は東京方面から、私は大阪方面から三島駅に向かいました。そのあと、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換え、終点の修善寺へ。約四十分かかります。修善寺駅近くの食堂で名物というわさび丼を食べた後、お墓に供える花などを買い、それからタクシーで法蓮寺まで向かいました。バスもあるのですが、私が事前に法蓮寺に電話したところ、本数が非常に少ないとのことで、タクシーで行くのが一番効率的だということになったのです。タクシーは駅で簡単に拾えましたが、帰りは拾いにくいので、寺で待って貰い、帰りもそのタクシーに乗りました。事前に片道3000円以上と聞いていましたが、待ち時間代500円も含めて、往復で約7000円でした。今後お墓参りをする人の参考に書いておきます。
法蓮寺は、駅からタクシーで片道約二十分の山中にあります。お寺に着くと、居住部分の玄関に、「法務で外出しています」「1/30川口家墓所をお参りをする方へ 略図を書いておきます、本堂の右側を通ってください」という張り紙がしてありました。二十日ほど前に、事前確認の電話で30日に川口家のお墓参りに行く、と言ったことを覚えていてくれたのです。お寺の人の心遣いに心動かされました。樋田君が用意してきたお菓子に簡単な文面を添えて置いてきました。
法蓮寺にあるお墓は30から40とのことで、ほどなく川口家の墓はみつかりました。もともとは出身地の伊東にあったのですが、川口家の事情で平成19(2007)年に法蓮寺にお墓を移したのです。そのため、お墓はまだ新しく川口家之墓という金文字も色あせていませんでした。
お墓には川口大三郎という名前はなく、戒名が四つ刻まれているだけでした。後ろには木製の卒塔婆が何本か立てられており、そのうちの一つに釈善然信士第五十回忌追悼供養と書かれていたので、釈善然信士が川口君の戒名だろうと推定しました。1972年逝去ですから五十回忌には少し間がありますが、他の卒塔婆もすべて裏に平成廿五年四月十四日とあるので、まとめて法事をおこなったのでしょう。戒名はふつう本名(俗名)の一部を取り込むものですが、なぜこのような戒名になったのかはわかりません。お墓になぜ本名が記されていないのかもわかりません。
あいにくかなり激しい雨が降っていたので、お花は供えましたが、菊地原君が用意した線香は焚くことができませんでした。お墓に向かって、それぞれの思いを込めて手を合わせました。五十回忌という時間の長さだけでなく、私は五十回忌が「 弔上げ」といわれる最後の法事であることに思うところがありました。もうこれからは川口大三郎君のご親族も川口君を偲ぶ行事をすることはありません。魯迅は「死者が生きている人間の心の中に存在していなかったら、本当に死んでしまったのだ」(「空談」)と言いましたが、私たちが川口君を思い出さなかったら、川口君は永遠に死んでしまうと思いました。
三島駅まで戻った後、近くの居酒屋で少し三人で雑談しました。かつて毎日のように顔をあわせ共に運動していたのに、事件や運動の記憶にかなり大きな違いがあることに驚きました。四十数年の時間の経過の中で、それぞれの記憶が変形しています。川口君を死に至らしめた実際の経過や具体的な主犯も、実はほとんど明らかになっていません。少なくとも墓参をした三人は知りません。川口大三郎君を巡る事件・運動を記録に残す
ことの意味を、改めて確認させられました。(樋田君、菊地原君の名前を出すことは、両君の承諾を得ています。
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